京都御所よりほど近い、維新の元勲・桂小五郎(木戸孝允)ゆかりの宿でございます。

木戸孝允と当館 維新の風雲児館木戸孝允と当館 維新の風雲児

維新の元勲桂小五郎と石長松菊園のいわれ維新の元勲桂小五郎と石長松菊園のいわれ

木戸孝允像

木戸孝允(桂小五郎)は天保4年(1833年6月26日)長州藩藩医、和田昌景の子として生まれ、幼少時に藩士、桂九郎兵衛の養子となり、小五郎と称した。のち準一郎と称し「松菊」と号した。

維新の風雲児となり、幕府の長州征伐令が出た時、長州藩主・毛利敬親が孝允を参政に任ずるとともに、姓を木戸に改めさせ、明治になってからさらに孝允と改名した。
桂小五郎は維新の志士としての変名ではなく本名である。

孝允は明治10年西南の役のころ、明治天皇に供奉して思い出の京都にやってきた。木戸屋敷は鴨川近く、土手町にあり、現在その屋敷跡に当館「石長松菊園・お宿いしちょう」が建てられている。名前の「松菊」は孝允の号にちなんだ名である。
孝允はその年の5月26日45歳で病没した。

その病床の間、明治天皇は親しく公の見舞いにお越しになった。当時民間人の見舞いに国家元首が自ら出向かれたことは公をもって初めてのことであった。
孝允、松子夫人の2人の墓は京都東山霊山に今も並んで建てられ、香花が絶えない。


小五郎夫人松子は京都三本木で幾松の名で芸妓をしていた。桂小五郎との出会いは、世相騒然たる幕末のある日、三本木の月波楼で勤王派志士十数人の会合があった席に、幾松が招かれた。幾松は志士小五郎の立振舞いや、りりしい態度にひと目惚れしてしまった。
それからは幕府側役人の酒席に出入りする機会をつくり、情報をそれとなく桂の耳に入れたので桂も心から感謝し、2人の仲はいっそう細やかになった。

文久2年(1862年)5月のある夜、桂は町人姿に身をやつし、幕府方の厳しい警戒の目をくぐり三本木の幾松の家に落ち着いた、二階の部屋に入り二人は差し向かいで浅酌徹吟、幾松が三味線を爪引き、「さつきや、あやめもわからぬ浮世の中に、鳴くは私とホトトギス・・・」と詠っている時、女中が「たいへん、たいへん」と叫んで、新撰組や幕府方の捕り手の夜襲を注進したので、桂はぱっと窓から飛び出し、屋根伝いに身をくらました。やがてどやどやと幕吏が踏み込み家捜しを始めたが、幾松は平然として三味線を弾き、小唄などを謡い続けた。
なるほど、人影もないことから、幕史もあきらめて「すまなんだ」と頭を下げて引き上げた。こうした幾松の度胸と、とっさの機転で桂小五郎は何回となく虎口をのがれている。

このようにして、桂は一人変身して京都市中に潜み活躍を続けた。桂が物乞い姿で三条大橋の下に潜んでいる時、幾松が手製の弁当を橋の下に落としたという話は、現在の二条大橋のことである。
夫君木戸孝允の死後、松子夫人はすぐに剃髪し、翠光院貞秀尼公となって当館東側にある木戸邸(京都市管理)に移り、夫の冥福を祈りながら明治19年4月10日この世を去った。


木戸公邸: 病床には明治天皇も訪れ、当時は大変な話題に
木戸公邸

当館石長(いしちょう)の名前は当主の姓「石井」の石を取り、「長」は長州藩の長をいただき、当館の氏神神社の宮司様よりのお言葉で「長」は長く栄える意味が含まれているとの意味合いから、「石」と「長」で「石長」の名が刻まれるようになったと言われています。
読み方も、本来なら「いしなが」か「せきちょう」が正しいのですが、この時のお言葉で「いしちょう」とするようおおせつかり、現在にいたっております。